元検事の事件回顧録(その6)
~農協組合長らに対する名誉毀損告訴事件(準独自捜査)~
第1回 端緒と事案の概要
1 この事件は,私がE地検に勤務していた時,警察に対して告訴がなされ,送付されてきたもので,長期未済事件(事件受理後3年以上経過した事件を「長期未済事件」といいます。)になっていました。警察から事件を受理した後,警察の関与なく,検察庁のみで捜査を行い(これを「準独自捜査」といいます。),被疑者9名の逮捕状の発付を得るなどの強制捜査を行って解決した難事件です。
送致警察の処分意見は「しかるべき」で,起訴するには難しい証拠関係で嫌疑不十分を理由とする不起訴処分でも良いというものでした。
2 事案の概要は,E県のある田舎町のX町の町長選挙を前にして,立候補を予定していたところ,立候補を噂されていた農協組合長と森林組合長の社会的評価を落とす目的で,X町の土地買収事業を巡る疑惑の解明を標榜して結成された「真実を守る会」(以下,「守る会」といいます。)の指導者であるKにおいて,「守る会」のメンバー8名と共に,何ら確実な資料がないのに,X町の有力者で土地買収事業の名義人であった農協組合長と森林組合長が,土地買収を巡りX町の指定金融機関として貸付等を行った際,5000万円という多額の資金を横領しているという内容の文書を9名の連名で作成し,それをX町内に1300部郵送して頒布したという,農協組合長と森林組合長に対する名誉毀損事件です。
そして,その横領を伺わせる出金伝票のコピーがその文書に添付されていました。両組合長が,これに憤慨しKほか8名を告訴した事件です。
送致記録を検討したところ,告訴人である農協組合長と森林組合長の供述は,誠に信用のできるものでした。
3 被疑者である被告訴人(以下「被疑者」といいます。)らは,送付書類上は全員否認でした。その弁解の内容は,文書の内容は真実であり,真実が証明できなくても,そのように事実が真実であると信じたことの裏付け資料・証拠があって,信じる理由があるというものでした。刑法第230条の名誉毀損罪の構成要件には該当しても,例外的に処罰されない第230条の2第1項に当たるというものです。
第2回 名誉毀損罪と真実の証明
1 名誉毀損,つまり事実を適示して人の社会的評価を落とすような行為がなされた場合は,通常,名誉毀損罪が成立しますが,同条の2第1項ではその「行為が公共の利害に関する事実に係り,かつ,その目的が専ら公益を図ることにあったと認める場合」には,「事実の真否を判断し,事実であることの証明があったとき」は,処罰をしないことになっているのです。
話は少しややこしいのですが,事実を適示して人に対する名誉毀損になる行為を行った人がいても,事実を適示され名誉を毀損された被害者の行為の内容が,公共の利害に関するもので,行為者が専ら公益目的で行った場合は,その「適示された事実」が,真実であると証明がなされた場合,名誉毀損行為を行った行為者には,名誉毀損罪としての処罰をしないという例外があるのです。
2 例えば,「ある公務員が,公務の遂行の中で700万円を横領した。」という内容の具体的事実を指摘した記事をその公務員に対する批判行為として雑誌に掲載した場合,横領という犯罪がなく,つまり適示事実が真実であるとの証明がないということであれば,その公務員の名誉を毀損しているので名誉毀損罪が成立します。しかし,適示事実が真実で,つまり仕事上,公金を横領していると証明され,行為者が,その公務員に刑罰を科す必要があるという公益目的で批判行為として記事を書いたということであれば,名誉毀損罪として処罰することはできません。
さらに,真実が証明されない場合であっても,行為者は全て処罰されるかというとそうではなく,行為者が真実であると誤信していた場合で,真実であると信用するについて確実な資料・根拠に照らして相当の理由があるときは,行為者を処罰出来ないという例外に該当する認識であったことから,故意がないとして,有罪とはならないと解釈するのが,判例通説です(犯罪が成立しないか,処罰しない事由があるとするのか等,学説上,大変争いのあるところです。)。
3 民主主義の社会では,人の名誉は保護されなければならないが,人には表現の自由があります。公共の利害に関する行為に対しては,当然,批判の対象にされるべきであり,その事実を適示した批判行為が,公益を図る目的でなされ,その適示事実について真実の証明があるならば,それは,いわゆる的を射た批判で,社会的に相当な主張であり,その批判行為は処罰するべきではないというのが法の趣旨です。
そして,真実性の証明に成功しなかった場合,つまり事実を誤信していた場合でも,確実な資料・根拠に照らし合理的な理由があって誤信していた場合は,処罰するべきではないという,なかなかややこしい話なのです。
繰り返しになりますが,自由に適正な批判をなすことができるという表現の自由が保障されている民主主義の社会においては,批判が真実であれば,たとえそれが人の名誉を毀損するものであっても,公益目的で行ったのであれば,そのような行為は許されてしかるべきであるということが,法に盛り込んであるのです。
本件は,「適示事実の真実性」の証明及び行為者のその認識がどうであったか,ということに犯罪の成否が掛かってくる事案でした。被疑者は,その事実が真実であることについての証明が十分できる確実な資料・根拠があるという主張でした。いわゆる名誉毀損の事実の証明と真実性の認識とそれを担保する資料の有無の問題です。
4 何か司法試験の刑法の問題に出題されそうな,法的解釈の問題がありそうな事件でした。しかし,この事件は,単発ではなく,「守る会」の主張する真実というのが,過去10年間の間に,町有地を横領したとか,詐欺であるとか,それについて虚偽の文書を出したとか,虚偽告訴だとか色々な告訴・告発が乱発されている背景事情がある事件でした。本件は,全ての真実を明らかにしたいという会の活動の中で,最後に発生した事件でした。
それで,本件の捜査に入ってから,私は,過去の分厚い数件の不起訴事件記録を全て検討しました。背景事件は,いずれも在宅の告訴・告発事件で,噂が中心で起訴できるような証拠のない事件ばかりでした。複雑かつ当事者同士の供述が相反し,その裏付け証拠が少なく,いずれも良く分からない事件だなというのが実感でした
第3回 捜査の開始,複数人に対する取調べ
1 ある日,上記告訴されている被疑者の中の1人を取り調べるために,検察庁へ出頭するように呼び出しをかけました。すると,1人を呼び出しただけであるのに,Kを含む被疑者9名全員が出頭してきました。そして,被疑者らは「我々は,一心同体であるから,全員一緒に取調べをして欲しい。」と主張しました。
私は,取調べは1人ずつしかしないと言いましたところ,主犯と思われる元E県県会議長の経歴のあるKが,「警察でも皆一緒に取調べをしてくれたのに,どうして駄目なんですか。」と大声で言いだしました。この男が,このグループのリーダーであることは直ぐに分かりました。
事件記録によると,Kは,X町長をした後,県会議員から県会議長にまでなった人物でした。当時の,E県知事Sと対立関係になり,個性の強さにより県会議長にまで上り詰めたものの,S知事ににらまれ,議員から身を引かざるを得ない状態に追い込まれ,一旦県政界から失墜してしまいました。しかし,その後,もう一度E県における勢力を取り戻そうとして,X町長に復帰することを考えていたようでした。
このKは,「警察も前の主任検事さんもそうしてくれたので,一緒に調べて下さい。」と何度も強く主張し,全員同時に取り調べて欲しいと要求し,それを譲りませんでした。被告訴人全員を一緒に調べて下さいというのです。
2 さて,君ならどうしますか。仕方がないので,9人一緒に調べをしますか。
取調べというものは,被疑者又は参考人から,過去に自己が経験した事実についての本人の記憶を聞き取るものです。正確か不正確かについて,他の証拠から検討し,嘘や思い間違いがないかについていろいろ聞き返し,嘘をついていると思われるときは,その矛盾を追及して真相を把握するために行うものです。
しからば,多人数を一緒に取り調べるということは,それぞれの人の真の記憶を確認することができない状況になるわけで,このような状況では,真相を解明するための取調べは,行い得ないものと考えなければなりません。一緒に取り調べることによるデメリットとしては,他人の供述聞くことにより,自己の記憶が揺らぐ,他の仲間との力関係から,自己の真実の記憶を供述できない,自己の記憶を仲間に聞かれることを避けるため,真実の記憶による供述ができないなどの弊害があると思われます。
3 真実の記憶に基づいて事実を認定するためには,1人ずつ取調べて,それぞれの記憶を確認する必要があります。それぞれが自由に記憶を喚起して発言し,供述ができる環境を作らなければならないわけです。
私は,身柄を拘束してでも,1人ずつの取調べができる環境を作らなければ,真相は解明できないと考えました。1人ずつ,個別に取調べをしなければならない,そのためには,全員逮捕し,1対1の関係を作らなければ,1人ずつの取調は出来ないということです。
第4回 取調べ室からの不退去
1 この日は「私は1人ずつしか,取調べはしません。今日は帰って下さい。」といいましたところ,Kは,「どうしてできないのですか。」と食ってかかってきました。私が,「今日は,お引き取り下さい。」と言っても,皆,帰ろうとしないのです。それで立会事務官と共に何度も「お帰り下さい。帰って下さい。」と繰り返したのですが,Kら9人は,帰ろうとしないのです。
20分ぐらいこのやり取りがありました。それで仕方なく,私が,「もし帰られない場合は,法的措置をとりますよ。」と言いました。つまり,退去を求めても退去しない場合の,不退去罪(刑法第130条後段)にあたるので,責任を問う可能性があると言う内容のことを言いました。
すると,Kが,真っ赤な顔をして「法的措置とは何だ!」,「何をすると言うんだ。」と大きな声で怒鳴り出しました。それで,大変,険悪な場面になりました。Kは,このような強引というか,強烈な態度を示して,威圧して,警察や前任検事を押さえ付けてきたのだと思いました。
この場面で現行犯逮捕をするかどうかですが,不退去罪の成立は認められるかも知れませんでしたが,その後どうするのかです。
逮捕した後,1対1で取調べはできますが,被疑者を名誉毀損罪の事実で取調べができるのか。その根拠はあるのか。逮捕して拘置所に留置しても,勾留請求はするのか。仮に勾留請求をしたとても,裁判所から勾留状は発付されるのか。そもそも,起訴し得る事案なのか。9人も逮捕するには,その時点で人的に何名の検事,何名の事務官が必要となるか,直ぐに準備できるのか。どれほどの手間が掛かるのか。取調べのために出頭を求められて,出頭した被疑者に対して,部屋から出なかったということで不退去罪が成立するとして,これだけで逮捕していいか。任意の呼び出しに応じて出頭してきた被疑者は,逮捕されたことについて了解するか。被疑者の納得は得られるのか。
このように,時間的,人的状況等諸般の事情を考慮し,私は,この時点での不退去罪での現行犯逮捕は避けるべきであるという判断に至りました。私は,事務官数名を呼び集めて,部屋の戸を開けて,おとなしそうな人から順番に,「今日はお帰り下さい。」と言って,被疑者全員を室外へ強制的,物理的に押し出しました。
2 何とかこの日は,不退去罪の現行犯逮捕の執行にまでは至らず,又大きな暴力事犯にもならず切り抜けましたが,大変な難件であると感じさせられました。どうも警察や前任検事は,Kの迫力に負けて,Kの言いなりになり,被告訴人全員を一緒に取調べをしていたようでした。
その後,次席検事と協議をして,1対1で取調べをするため,全員について逮捕状を請求する捜査方法を実行することにしました。そして,できるだけ捜査の手間を省いて,被疑者が納得の上,逮捕状を請求し,執行するにはどうしたらいいかを検討しました。
任意出頭を求め,出頭してきた被告訴人に対して,否認した場合に,否認したということだけで逮捕するのは,「出頭したのに何で逮捕されなければならないのか。」という反発が多いと思われ,逮捕の要件をさらに検討することにしました。
そして,被疑者が,取調べのための出頭を求められたのに,これに応じず,何度も出頭を求めたのに,不出頭の事実を積み重ねるということになると,そのことにより逃亡,証拠隠滅の虞が高まり,それで逮捕の必要性が出てくるということになるので,その要件を整えることにしました。不出頭の繰り返しの事実を積み上げで,逮捕の必要性が出てくるという方法で逮捕状発付に必要な要件が整うよう準備することにしたのです。
過去に,外国人登録法違反事件で,被疑者が,警察官からの何回もの出頭要請に対して理由もなく不出頭を繰り返したことが,明らかに逮捕の必要がなかったということは出来ないとして,被疑者に逮捕状が発付されたことが適法であるという判断がなされた判例がありましたので,これを参考にしました。
第5回 逮捕状の取得の方法と準備
1 それからは,立会事務官に対し,各被疑者について,それぞれ電話で,取調べのための出頭の呼びかけを指示しました。その際,1人だけでは出頭しないのであればその旨確認し,「1人では出頭しない。」との電話聴取報告書を作成させました。1ヶ月時間を掛けて,1人4,5回の呼び出しを掛け,その都度,不出頭の旨の電話聴取報告書を作成して貰い,全被疑者について,1人で取調べを受けるということであれば,出頭はしないとの資料を整えました。全員について,数回の不出頭確認をしたということです。
警察官に対する供述調書に基づいて各被疑者の対応状況について,検討したところ,前記Kが首謀者で,殆どの被疑者が,同人に追従しているのではないかと感じました。供述調書を読むと,被疑者の中にひとり,どうもKを信用していないことを伺わせる内容の供述をしている者(P)がおり,私は,その被疑者Pに直接電話をかけました。そして,「貴方自身はどうなんだ。」と問い詰めたところ,Pは「私はよく分かりません。」,「Kさんが確実な資料を持っていると言い,今の段階では見せられないというので,皆それを信用しているのですが,私自身は資料が無く,Kさんも,資料がないかも知れないと思っています。」旨の供述を得ました。この供述から,被疑者間の力関係について,Kが首謀者で,他の者がこれに追従している事件であると確信をすることができました。
そこで,その被疑者Pに対して,その旨の調書を取りたいと言ったところ,1人で出頭するわけにはいかないとのことで,出頭は拒否されました。この電話の内容についても,逮捕状請求の際の疎明資料として使うために電話聴取書を作成しておきました。
2 被疑者を逮捕しての取調ベを進める前に,被疑事実について検討を要する問題がありました。名誉毀損罪の事実の証明について,何が事実であるかをしっかり確定しておかなければならないということでした。
本件には,これまで何件もの告訴・告発事件が絡まっており,いずれも解明できないとして嫌疑不十分で処分されていたという背景状況がありました。被疑者連名の文書には,背景の事情も事実として記載されており,「守る会」のメンバーは,それらの事実を全て明らかにしたいという気持ちであると思われました。そのX町における過去の告訴・告発事件の背景状況について真実かどうかを捜査するということになれば,不可能と思われる捜査を実施しなければならず,実施しても真相が明らかにならない可能性が大という状況でした。
しかし,本件の名誉毀損事件の真実というのは,「農協組合長と森林組合長が5000万円の横領をしたという事実」がないのに,これが真実だとして組合長両名の名誉を毀損した,ということでした。ですから,本件では,両名が横領したという事実が真実かどうか,つまり,被疑者らは,両組合長が横領したことが真実であると信用するについての,確実な資料・根拠を持っていたかどうか,真実であると信じるに足る相当な事由があったかどうかということが,犯罪の成否の分かれ目になります。
この5000万円を横領していた事実が,真実であるという証明ができず,さらに,横領が真実であると信じるに足る確実な資料・根拠に照らして相当な事由があったといえない場合は,処罰の例外の要件は整わず,処罰ができるということになります。被疑者が,前記Pと同様の供述,弁解であれば,真実であると信用するに足る相当な事由があったといえないということになり,被疑者らを処罰することができるということになるのです。
3 そこで,被疑者らに対する逮捕状を請求する前に,名誉を毀損された農協組合長と森林組合長の取調べを慎重に行い,被害者としての検察官調書を作成しました。両名は,名誉を毀損されたので,告訴人らを処罰して欲しいと明確に供述しました。そして,名誉毀損文書の記載内容が真実でないことについては,金融機関に対し頒布文書に添付のコピーされていた出金伝票について,裏付け捜査を行ったところ,別の正当な取引の伝票であり,横領とは関係のないものであることが判明し,関係者からその旨の検察官調書を作成しました。
第6回 被告訴人Kの取調べ
1 資料が整ったところで,捜査の方向性を決めるために,一度,首謀者であるKの取調べを行ってみることにしました。Kに対し,「貴方なら1人でも取調べを受けられるでしょう。」と持ちかけました。すると,当初Kは,「それは無理です。」と言っていましたが,私が,「貴方なら1人でも大丈夫でしょう。」と繰り返して説得すると「検事さんがどうしてもと言われるのなら,他の仲間を説得します。無理かもしれませんが。」という格好を付けた態度に変わり,やっと,取調べに応じるということになりました。
この取調べに際しては,反省することがありました。後に実施したKの自宅の捜索の際に出てきた多くのマイクロ録音テープの中に,私のKに対する取調べの状況が録音されているものがありました。当時,気がつかなかったのです。
Kの取調べについては,それまでにKが絡む告訴事件が数件有り,過去の不起訴記録の資料を調べの際の机の上に出していたところ,「これだけですか。これだけしかないんですか。ははーん。」等と発言しました。いかにも捜査官が,Kに有利な過去の資料を隠匿したかのごとき発言をしてきたのです。
そして,Kは,私の捜査方針を窺いつつ,この名誉毀損事件が難件で立証が無理な事件であることを,私に押し付けようという態度を示しました。Kは自信満々の態度で,「この事件は,警察も消極意見であると署長さんから聞いておりますし,高検の検事長も前検事正も起訴できない事件であると十分知っている事件で,格好をつけるために捜査しておられることは十分分かっています。」という言い方をしました。つまり,この事件は,私が事件の引き継ぎを受ける前から,起訴できない事件であると分かっている旨の主張をしました。
また,「他の仲間が,どうしても農協組合長や森林組合長を許せないというので,やむなく力を貸しているのです。」と言って,自己の立場を従的なものに装う態度を示しました。
さらに,こちらの聞く質問には正面から答えようとせず,元県会議長をしていただけあって,政治家が演説をするような調子で,迫力満点で,約1時間,自己の主張のみを一方的に熱弁し,これを繰り返しました。名誉毀損の事実については「何も話したくない。」というだけで,全く取調べにならないものでした。逆に,Kが従前に告訴・告発した事件について,「何故捜査しないのか。」と,食ってかかってくる状況でした。やはり,過去の背景事実の真実性についての捜査を要求してきたのです。
2 このように,Kに対する取調べをしたものの,Kの弁解が何か分からず,ただ,両組合長が不正なことをしていることが真実であると単純に名誉毀損の犯行を否認しているだけで,根拠のない勝手な主張を繰り返すだけだと分かりました。
しかし,Kの迫力ある態度から,真相を解明するためには,まさにKと他の被疑者を隔離して,他の被疑者は,別の場所で,1人ずつ取り調べることが,必要であると確信したことから,全員の身柄拘束を実施することにし,9名についての逮捕状を請求することにしました。
裁判所は,罪を犯したと疑うに足りる嫌疑が相当であり,正当な理由のない不出頭で逮捕の必要性があると判断し,9人全員の逮捕状とKや関係者の自宅の捜索差押許可状を発付しました。
第7回 強制執行の実施
1 強制捜査当日,検事,副検事,検察事務官,総勢8名が,車3台に分乗して午前5時半E市を出発ました。地検本庁から約1時間半かけてX町へ行き,午前7時に,現地で強制捜査に着手しました。早朝に着手するのは,被疑者Kの身柄を確実に確保するためでした。
Kの邸宅は,今でも良く覚えています。塀に囲まれた大きな屋敷で,正面の門をくぐって玄関を入ると,奥を屏風で目隠しした4畳半くらいの玄関の間があり,早朝であるのに,Kはそこへ着物に袴の姿で出てきました。庭には打ち水が施されており,地方の名士の邸宅の趣を十分感じさせられました。
そして,玄関の間に出てきたKに対して,私が「お早うございます。ちょっと事件のことで,お伺いしたいことがありますので,検察庁まで,御足労をお願いしたいのですが。」と言って,任意同行を求めました。Kは,むっとした顔つきにはなりましたものの,多少の予想はしていたようで「着替えをしますので,しばらくお待ちください。」と割り切った態度に出て,奥へ入って行きました。逃走をしないかと裏口や出入り口には事務官を配置していましたが,心配は無用でした。
2 自宅を捜索したところ,マイクロテープが続々と出てきました。私の取調べ状況の他にも,前検事正や高検検事から,Kが,自分の都合の良いように言葉を引き出した電話録音内容の盗み取り録音テープが沢山出てきました。
その内容は,概ね,「この事件は難しいと言うことでしょうね。ええ,ええ,もう聞かなくても分かっていますよ。検事正もそのような指示を出しておられるんですよねぇ。」,「はい。はい。分かりました。」と言うようなものでした。相手の答えを聞くまでに自分で自分の都合の良い結論を決めて,そのように確認して,返事するまもなく,次の話にもっていくというようなものでした。
誠に優れた話術というか,ずるい話術で,自分勝手な方法で,強引に相手を納得さようとする話の展開でした。私と前任検事の取調べ状況も秘密録音されていました。前任検事の取調べ状況についても,検事の質問に対して全く答えのない,冴えたKの話術の独壇場で,取り調べの体をなしていませんでした。気をつけないといけません。
3 Kについては,私が被疑者と同じ庁用車に乗って任意同行し,本庁で取調べをしたところ,供述内容は従前どおりでしたので,私が逮捕状を示して逮捕しました。
その他の被疑者については,Kが出頭しているので検察庁へ出頭するよう個別に電話連絡をしたところ,順次出頭してきました。そして,待合室に待たせて,身柄班2名の検事が,被疑者を4人ずつ担当して取調べをしました。余計なことですが,この応援検事は,その後,二人とも検事正になりました。
出頭してきた他の被疑者には「Kは,別室で別の検事が既に取り調べている。」と言っただけで,彼らは,何の文句も言わず,単独の取調べに応じました。強いリーダーがいなくなった時の,同調者の,予想された行動でした。二人の検事が,1対1で取調べを行いました。これでなくては,本当の取調べはできないのです。
9名中,確実な資料があると思っていた旨弁解をしたのは,Kの他は2人だけで,その他の被疑者は皆,Pと同様,「Kさんが確実な資料を持っているが,それは今の段階で見せられないというので,それを信用し,Kに同調していただけで,自分自身は何も確実な資料を持ち合わせていない。」旨,つまり真実性についての確実な資料がないのに名誉毀損文書を頒布した旨,自供しました。
土地買収事業における横領の事実の真実性を求めるものは,1人もいませんでした。従前どおり否認した被疑者2名は,その日に通常逮捕しました。逮捕した他2名も勾留延長前に自白しましたが,Kは最後まで,犯行を否認したままで,自白に至りませんでした。
4 その時までに私は,12,3年間全国各地検において多数の被疑者の取調べを経験してきましたが,その中でもこのKという被疑者は,こちらの言うことを聞かない,大声で圧力を加えてくる,突出して扱いにくい,なじめない被疑者でした。
結局Kからは自白は得られず,仕方なく,勾留延長満期日にKを否認のまま公判請求起訴しました。否認したことで逮捕した2名は,その後自白したことから10日間で釈放し,その他の被疑者と共に,前科がなく,自白し,全員Kの指示に従い,ただ,Kに追従していただけであり,反省もしているので,全員,起訴猶予としました。
第8回 公判の推移
公判廷でも,Kは否認のままで,審理が進みましたが,否認を続けるものですから証拠隠滅のおそれがあるとうことで保釈もなかなか認められず,起訴後約2年が経過して最終的に,やっと一部証拠を同意し,保釈になったと記憶しています。
私はKの公判途中でO地検へ転勤となり,その後,転勤先でも,事件のことがずっと気になっていました。ある日の新聞に,公判中のKが死亡したという記事が出ているのを見ました。難しい事件であったという記憶のある事件で,Kに対してきついことも言いましたが,可哀想なことになってしまったなと思いました。
Kの,あのような持ち前の強い性格が,あの人の人生の最終節を,本人の予想外のものに変えて行ってしまったのだなぁという感想を持ちました。
事件の真相を明らかにするために必要な,取調べの方法,特に複数人の同時取調べの適否,現行犯逮捕の実施の適否,逮捕状の請求方法,強制捜査のやり方等色々と,勉強になる事件でした。