元検事の事件回顧録(その5)
~太平洋の公海を航行中の日本船舶上で発生した外国人による殺人事件~
第1回 捜査の端緒
1 ○年7月14日,太平洋の公海上を航行中の日本船籍船舶第31E丸上で,インドネシア国籍の船員が,同国人船員に対し,出刃包丁で,その左側胸部等を突き刺し死亡させたという殺人事件が発生しました。本件の捜査の端緒は,船長から船舶の所有者であるI県M市所在のM水産株式会社にファックスにより報告がなされ,当日午後,同会社代表取締役から海上における犯罪を取扱うM海上保安署にその情報が提供され,同保安署から,M地方検察庁に事件発生報告がなされたもので,この船舶は,今後,ハワイ港に寄港する予定であるということでした。
2 この事件は,私がM地検検事正をしていた時に捜査指揮した事件です。
第1の問題は,管轄は何処かということです。事件の捜査ができるのは,原則としては,犯罪が発生した場所を管轄する地方裁判所と同一管轄として対応する地方検察庁(検察庁法5条)及び警察で,通常は,京都府下で犯罪が発生すれば,その犯罪地を管轄する京都府警が捜査して,京都地検が事件送致を受け,京都地裁に起訴するということになるのです(裁判所の土地管轄は,犯罪地又は被告人の住所,居所もしくは被告人の現在地による。刑事訴訟法第2条第1項)。
しかし,本件は,犯罪地が公海上で日本ではないわけです。犯罪場所は,日本に船籍のある船舶上であったのです。このような場合,何処の地裁に管轄があって,誰が捜査することになるのでしょうか?
まず,日本の刑法が適用されるかについては,刑法第1条第2項(日本国外における日本船舶内において罪を犯したすべての者について,刑法を適用する。)により,日本国に船籍がある船内で罪を犯したインドネシア人について,日本の刑法が適用されるということになります。
次に,管轄についての刑事訴訟法第2条第2項(国外に在る日本船舶内で犯した罪については,その船舶の船籍の所在地又は犯罪後その船舶の寄泊した地による。)により,本船の船籍がI県M市M港であることから,船籍の所在地を管轄するM地裁に管轄があるということになります。M地裁に管轄があるということは,これに対応する検察庁つまりM地検に管轄があり,そして地上ではなく海上犯罪であることから,警察ではなく海上保安署に管轄があるということになります。
従って,本件については,M海上保安署が第一次捜査権を行使する権限があり,管轄のあるM地検に事件送致がなされることになるのです。そして,本件については,被疑者の所属するインドネシア国と,この船舶が最初の寄港するハワイ港があるアメリカ合衆国,そして日本の3カ国に捜査権があることになり,日本ではM地裁に対応するM地検に捜査権があるのです。
そこで,何処が捜査をすることになるかですが,何処もやりたくないわけで,事件発生現場である日本船舶を管轄する日本が一番情報を取得し易く捜査に便宜であり,他の国は関わり合いになりたくないだろうと推察し,M地検が責任を持って捜査するべきであるということになりました。
4 M地検は,事件発生の翌日である15日に,事件発生報告を受け,直ちに主任検事を指名しました。当時,三席検事は複雑な身柄事件をもっており,四席検事は,司法修習生の指導を担当していて,この時しか夏期休暇が取れないということで休んでいました。さらに,末席検事は東京でパソコン研修があるということで,みな捜査に関与することが出来ず,A庁明け検事であるI支部長検事に白羽の矢を立てました。立てられた方は迷惑であったでしょうが,貴重な経験をすることになりました(注)。
それまでに同会社を通じて送られてきた日本人7名,インドネシア人13名のファックスの内容では,殺人事件として十分証明できるかどうか分からないようなものでした。そこで,犯罪として捜査するべき事案かどうかの検討をするため,正確な事実関係を把握することにしました。
その方法としては,同保安署を通じて,会社に対して,船上の事件関係者(被疑者,目撃者など)から,犯行状況,目撃状況,場所関係,動機関係等について,こちらからの具体的な質問に対して回答を得るという方法で,質問方式で書面により照会するように指示し,その回答により,正確な事実関係を把握することにしました。
(注) 三席検事,四席検事という呼び方は,検察庁においては地方検察庁のトップを検事正といい,2番目を次席検事といいます。このことから,現場のトップを三席検事,その次を四席検事と呼ぶのです。
また,A庁明け検事というのは,検事は任官後,最初の勤務地は大規模庁で「新任検事」と呼ばれます。次に小規模の検察庁へ転勤した検事を「新任明け検事」といいます。そこで2,3年勤務しその後再び大規模庁に転勤した検事を「A庁入り検事」といいます。このA庁で2,3年勤務しその後再び小規模庁へ転勤した検事を,「A庁明け検事」と呼ぶのです。
第2回 捜査の経過
1 2,3日後に,会社から上記照会に対する回答のファックスが届き,検討の結果,目撃者も居るということで,殺人事件として事実関係について本格的に捜査をする必要があると判断しました。日本国内で,この種の事件の捜査を実施するについて一番簡便な方法は,同会社の協力を得て被疑者,目撃者等関係者を日本に帰国させ,当庁において,その取調べをすることであると考えました。
以前,私が,K地検に三席検事として勤務していた時に,大西洋のモーリタニア沖の公海上を航行中の日本国籍船上における日本人同士の殺人事件が発生し,その事件を捜査・処理をしましたが,その際には,船泊所有会社の協力が得られました。
当方の要求に応じて,被疑者と目撃者が会社の費用で帰国させてくれ,それで,日本国内において逮捕,取調べ等の捜査をすることができ,捜査が大変容易に行うことができたという経験がありました。その事件では,殺人の被疑者が,以前,海上保安庁に勤務し海上保安官の経験を有していたということから,船上における実況見分は,被疑者の指導で行われたという特異な事件でした。
2 ところが,本件では,M水産株式会社に対して,目撃者のインドネシア人について日本に来日させて欲しいと海上保安署が要求しましところ,同会社の意向としては,同船は直ちにアメリア合衆国ハワイ州ホノルル港に向け曳航させ,同月24日に同港に寄港して停泊し,被害者の死体を降ろし,被疑者を引き渡すが,数日後に,再び,延縄漁業に向かう予定とのことでした。
そして,関係者はいずれもインドネシア人であり,目撃者などは再び延縄漁業に従事させようと思っているので,日本で捜査するため来日させるのなら,そのために必要な飛行機,宿泊の費用負担や,その他外国人であることから入国の手続等を全て国の方でやってくれない限り協力できない,取調べが必要ならハワイに停泊中にやって欲しいとの回答でした。
会社の言い分はもっともであり,協力が得られなければ仕方がないので,M地検としては,主任検事をハワイへ出張させて,同船がハワイに停泊中の時間を利用して捜査を行わざるを得ず,その手続で捜査を進めることにしました。
3 この判断をした時は,すでに18日金曜日の夕方になっていました。土曜,日曜日,海の日と3連休になりますから,手続としては,即座にS高等検察庁次席検事に対して事件の概要と捜査方針を説明して,同高検検事長から主任検事と立会検察事務官の海外出張の了解を得なければなりませんでした。これは電話で報告し,即日,その了解を得ました。
第3回 検事の外国出張
1 検事を外国に出張させる場合は,最高検において検事総長による海外出張の命令を出してもらう他に,パスポートの発給申請手続を外務省で,搭乗券の取得手続を法務省で行うなど,海外出張のための手続をいくつも行う必要があります。M地検としては,急遽,22日の火曜日に,最高検察庁と法務省に同時に係員各1名を派遣し,その手続を進める一方,出張する検事と検察事務官については,そのパスポートを取得するために必要であることから両名を東京へ出張させました。
それから,外国で捜査を実施するということは,相手の国において検察権という日本の国家権力を行使することになります。各国の主権を尊重する国際社会では,他国の領域では公権力の行使に関わる行為は行わないこととされています。相手国に対して捜査権行使についての了解を得る必要があります。これは,法務省刑事局国際課の仕事で,まず検事正から国際課長に概要を説明して対処を依頼し,次席検事から事案の概要と捜査予定についての詳細を報告させました。
国際課は,アメリカ合衆国大使館を通じてアメリカ司法省に対し,貴国において捜査を行いたい旨の連絡を付けてくれましたが,同国内における本件捜査についてのアメリカ側からの了解は,なかなか返事が来ませんでした。
2 一方,第一次捜査機関である海上保安庁,具体的にはM海上保安署とは,共同捜査をすることになりましたから,主任検事が,第31E丸の寄港時期から出港時期までの間の捜査の段取り,逮捕状の請求時期,被疑者の身柄の確保の方法と日本への搬送,逮捕時期,日本での被害者の解剖の手配,取調べ予定者の選定と取調べ事項の指示などについて,海上保安官と綿密に連絡を取り,協議を行いました。
アメリカからの上記回答がくる前でしたが,捜査を開始するにつき時間がないので,海上保安署の保安官が,船舶上でなら捜査ができるという前提で,先に渡米し,追って,当庁も主任検事と検察事務官が成田から飛行機で出発することにしました。
出発前の準備としては,日本にいる次席とハワイに行く主任検事との間では,時差が19時間くらいあるので,捜査報告や捜査指揮の時間帯を設定しなければならず,主任検事には,事務局長に指示して,海外用の携帯電話機を用意させました。そして,録取した調書はファックスで日本に送り,次席がこれを元に捜査指揮・指導をすることにしました。宿泊先はホノルル市内とし,海上保安に手配を依頼し,通訳についても,海上保安署と協議して行うことにしました。
3 通訳については,当初,インドネシア語と英語の出来る通訳人1人と英語と日本語ができる通訳人1人の,2人を付けるということで検討していましたが,そうなると,取調べ室として予定していた船長室に被疑者,検事,事務官,通訳2人が入ることになり,大変狭苦しく,かつ,取調べに時間のかかることが予想されました。
また,通訳人の確保については,出発前に確定しておらず,通訳料についてはカードが使えないだろうことを予測して,事務局長が役所から,主任検事に経費として現金30万円位を用立てさせました。最終的には,運良くインドネシア語と日本語ができる船会社の通訳人がいることが分かり,この人がハワイへ来てくれるということで,海上保安官と検事の両方の取調べの通訳をしてくれることになりました。主任検事からは,検察事務官も英語が不得手なので,ハワイでの取調べ以外の行動を補助してくれる通訳をつけて欲しいとの要望がありました。本省は,このような費用を出してくれるかなという疑問があり,難しいとの回答をしました。後日聞いたところによれば,やはり現地でいろいろ困ったことがあったらしいです。今から考えると,必要の都度通訳をつける位の配慮をしてやれば良かったなと反省しています。
確か,出発するまでに捜査権行使についてのアメリカから回答が来なかったので,国際課とも協議をして,「駄目だ。」と言って来ないということは捜査することを容認するという考え方で良いのではないかといことで,25日にパスポートが発給され,翌26日土曜日に検事と立会事務官をハワイへ向かって出発させました。
第4回 捜査共助
1 通常,外国における捜査及び証拠収集が必要な場合については,相手国との間で捜査共助をすることになります。捜査共助とは,外交ルートを通じて捜査協力の要請を行い,相手国に捜査をしてもらうことで,その結果は,外交ルートを通じて資料送付してもらうということになるのです。
本件の場合,海上保安署又は地検が,要請の対象となる犯罪事実・関係法令の条文,請求する共助の内容・目的を示す書類を作成し,その翻訳を付けて外務省からアメリカ外務省に請求して,国務省を経由してアメリカ司法省が要請内容を検討した上,アメリカ司法官憲が捜査を実施して,その結果についての書類を作成し,その書類を再び外交ルートを通じて我が国に送付してくるという,大変迂遠なことになります。
捜査共助によるには,その準備や日米間の外交ルートの意思疎通や連絡等に相当の日数を要するところ,第31E丸は,ホノルルに数日しか停泊しないのですから,この捜査共助方法では,到底捜査の目的が達せられないのです。
そこで,急を要することから,アメリカ側も,同船の船舶上に限って取調べをするという方法であれば,こちらが捜査することを容認してくれるだろうという考え方をとることになったのです(消極的共助という。)。
後で知ったことですが,我が国とアメリカとの間では,「日本国とアメリカ合衆国との間の領事条約」というものがあって,互いに相手国の船舶内の犯罪については,一定の場合を除いて相手国には訴追しないことが確認されていることから,相互に,訴追を行う国による捜査を認めることが予定されていると考えられるということでした。
出発日の26日,M地方に地震が発生して新幹線が止まり,主任検事と事務官については,公用車を出して,新幹線の仙台駅まで送って,ようやく成田に到着したというハプニングがありました。
第5回 死体解剖結果報告書の証拠能力
1 主任検事がハワイに到着した時には,既に第31E丸はハワイのホノルル港に寄港しており,ホノルル市検視局解剖室において,被害者の解剖が実施された後でした。解剖には日本の海上保安官が立ち会い,「死因は,左側胸部から左側腹部にかけての刺切創に基づく失血死である。」と判明し,その旨の海上保安官が作成した報告書ができていました。
被害者の死体については,死亡直後,船舶上においてすぐに冷凍状態にして保存され,その後,解剖を行った後,再び冷凍状態にして日本に搬送されました。そして,I医科大学法医学部において再度解剖されましたが,この日本国内における解剖の時点では血液がなく,失血死という鑑定結果は出されませんでした。従って,死因の証明は,海上保安官が解剖に立ち会い,ホノルルの解剖医による失血死であると聞いた報告書のみでした。
2 さて,公判においてこの報告書を証拠として提出しようとしたものの被告人側から同意されなかった場合,死因はどのような方法で立証することになるのでしょうか。
日米の外交ルートを通じて,ハワイ州ホノルル市の検視局から死体についての鑑定書の送付を受け,これを翻訳し,I医大の解剖の執刀医に対して提供し,鑑定書の記載と,自ら解剖した結果を総合して被害者の死因の可能性についての専門的意見を求め,場合によっては鑑定書の作成を依頼するというのはどうかと検討しました。
もっとも,本件では,最終的には海上保安官の上記捜査報告書の提出に同意が得られ,証拠として提出されました。
第6回 アメリカ合衆国内における任意捜査と公権力の行使
1 ハワイにおける本件の捜査は,ハワイに停泊中の第31E丸の船舶上においてしかできず,被疑者の取調べも目撃者の取調べも,日本籍船舶上で行わざるを得なかったものの主任検事により順次,順調に行われました。
しかし,被疑者を日本に連れて帰る際に問題が生じました。被疑者に対しては,それまでの捜査資料から,日本のM地裁から逮捕状の発付を得ていましたが,いつ,どこで逮捕状を執行するかが問題となりました。船舶上が日本であるとして,そこで逮捕したとしても,船舶を下り,飛行場へ行くまでの間はアメリカの地を踏むことになって,ここでは日本の公権力を行使することができないため,ここまでの段階で逮捕状を執行することはできないであろうと思われました。
それでは,どうすればよいか。その方法は,ハワイの沿岸警備隊が,被疑者を囲って逃走を防止してくれ,逃亡されないようにして,ハワイ港からホノルル空港へ被疑者の身柄を移動したとのことでした。警察官職務執行法上の任意同行という形で,本人の同意もあって,事実上の実力行使をやってくれたということです。殺人という危険かつ重大な罪を犯した犯人については,逃走されたときの現地における治安に対する不安も懸念され,アメリカ側が任意同行に協力してくれたので,法律的には,警察比例原則により,それなりの事実上の実力行使が許されるとの解釈をしました。
ホノルル空港において日本航空の機長からは,殺人犯は危険であるから,搭乗する前に逮捕して欲しいとの要望がありましたが,逮捕状が執行できないことから,本人納得のもと,海上保安官が被疑者の両脇を固め,危険を防止するということを説明して了解して貰いました。
そして,日本国のみの主権が及ぶ公海上空に入った時点において,航空機内において,あらかじめM海上保安署の方で,発付を受けていた逮捕状の緊急執行を行うように指示し,その通り逮捕が執行されました。逮捕状は日本にあり,航空機内の手元に令状はありませんでしたから,逮捕状の緊急執行の要件を説明して執行したわけです。
第7回 帰国後の捜査
日本に帰国してからは,被疑者を成田から海上保安署の車でM海上保安署に引致し,ここで逮捕状を示し,司法警察職員による弁解録取が行なわれました。その後,同保安署は直ちにM地方検察庁に被疑者の身柄を連行し,地検で事件を受理して弁解録取をして,直ちに勾留請求をしました。
その際,インドネシアの領事館に通報しましたが,インドネシア側は,ただ弁護士を選任しただけでした。従って,インドネシア国も,捜査権限は行使しないということになり,M地検が,単独で捜査を継続することになりました。
被疑者の身柄は,M刑務所付属の拘置所で留置することにしました。被疑者は殺意を否認しましたが,関係証拠を検討した結果,未必の故意が認められるとして起訴しましたところ,裁判所でもその通り未必の故意が認定され,殺人罪が認められました。
この種の特異な事件に出会った時は,まず先例を調べ,先例と本件が,どのように似ていて,何処が違うかを念入りに調査し,どの先例を使うことができ,どの先例は駄目であるということを検討するのです。その対象となる先例は,何を調べればいいのかということについては,常日頃からの研鑽と,信頼すべき経験の豊富な上司にお願いして適切な指揮・指導を得ることが大切だと思います。
また,本省刑事課の局付検事に調査依頼することも,一つの方法です。検事は,全国に多くの同期の仲間がいるのですから,そのネットワークを使って,情報を仕入れることも大切です。その資料の収集については,検察官が保有する資料を参考にすることが有用です。常にそれらの資料に目を通しておき,どの資料に,大体どんなことが書かれているかについての,知識をまとめておくことが,このような特異な事件の捜査に出会った際に,極めて重要な効果を発揮することになります。
主任検事には,たまたま本庁の他の検事が所用で本件を担当できなかったことから,支部勤務であるにもかかわらず本件の主任検事となり,大変な目に遭わせたことになりましたが,良い経験を積んだということにもなったと思います。